妻が他界して数年経過した。ようやく過去の出来事として文章に残せる気持ちを持てた。
だけど、何かの拍子に涙は出てくる。日頃は、子育て優先で時間に追われる生活を送っているため、しみじみと思い出すことも無くなっている。妻の最後を少し書き留めておこう。
ホスピスで過ごした最後の数日間
妻が乳がんで亡くなったときの記憶が鮮明に残っている。暇になると考え込んでしまうのは、仕方がないと思う。いるべき人がいなくなった現実は、なかなか受け入れられなかった。
どんなに物理的に恵まれていても、人の命は取り戻せないのだ。
- 最後の数日間(ホスピス治療)
- 終末医療
2019年4月17日に自宅から私が妻を車に乗せて大学病院まで向かった。向かう途中、妻はグッタリしていて後部座席で横になっていた。
大学病院に着いて、いつもの「乳腺・内分泌外科」ではなく「消化器・肝臓内科」に向かった。その理由は、肝臓の数値が悪ければ抗がん剤を投与できないため、肝臓内科の先生の見解が必要だったからだ。
この辺りの内容は時系列で別に書くため、ここでは具体的に書くことをやめておこう。ただし、4月17日の入院を最後に妻は病院から自宅に戻ることはできなかった。4月24日頃から4月27日まで終末医療を開始した。妻の拒否してきたモルヒネの投与だ。終末医療を選択しなければ、抗がん剤の打てない妻は、痛みと闘わなければならない。もうこれ以上、痛い思いはさせたくない一心で私は終末医療に同意した。
妻は、終末医療中、一切しゃべらなかった。時折、面会に来た兄弟に対して反応したり、動いたりしたけれどしゃべることはなかった。そして2019年4月27日午前中に最後のときが来た。
邦画「ステップ」を観て
アマプラで観られるようになった映画「ステップ」、何となく気になっていたので子どもたちが寝静まった夜や仕事の合間に観てみた。
想像していたよりリアルな内容に、共感してしまう部分が大きかった。
亡き妻が治療と戦いながら悔しい思いをして他界したことをつい昨日のように思い出した。
2019年4月27日に他界してもうすぐ4年目になうときだ。
いまでも忘れられない、妻が亡くなる瞬間の「ぱっ」と目を見開いて”ひと言”を言い残したあのときの顔。
「なんで?」
「パパ」
「バカ」
どれもあてはまる。
前々から思っていたけれど、妻の悔しかった思いや一生懸命に病気と闘ってきた思いを代弁できるのは私しかいないということ。義母に妻の治療のことを託されて、周囲の人間すべてに病気をことを隠してきたことから、病気のことで感情をあらわにできるのが自分しかいなかった。
それだけに、どれほど一生懸命「乳がん」と闘ってきたか、いちばん理解しているのが私なのだ。私は妻の思いを伝える義務がある。
妻はガンで亡くなったのではない痛み止めで亡くなったのだ
その大きいなテーマが「妻はガンでなくなったのではない」ということ。抗がん剤の副作用(痛み)を抑えるため、痛み止めを飲んでいた。その痛み止めのカロナールを飲み過ぎて肝硬変になってしまった。アルコールなど一切飲まない妻が肝硬変になってしまったのだ。
つまり、「抗がん剤治療の落とし穴」で亡くなったのだ。しかも、ノーマークでなすすべもなく。何とかしようと思っても、余命1週間では話にならないからだ。
たぶん、文章力のない私が不摂生な暮らしをしながら生き延びてこらえているのも、亡き妻の思いを世に伝えるためなのだと思う。だから、ひと昔前なら考えられなかったWebライターを目指して、Webライターのスキルを磨いてきたのだと確信した。
この思いとともに、こうして亡き妻の一部始終を伝えるための筆を執ることにした。
乳がんで亡くなった妻のことを書こうと決めたのが2022年2月28日こと。