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ビーイングに面接に行き、みごと不採用になった1983年3月の話

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昔話をします。というよりは、忘備録になるでしょう。人間の記憶はあいまいなうえに気まぐれだから思い立ったときに証拠のない、証明できない事実をネット上に公開します。

1983年3月 ビーイングに面接→不採用

私は、1983年3月に上京しました。何の保証もない状態で群馬県から東京へと。上京した目的は、「バンドでプロになること」です。
しかし、今も昔も現実は甘くありません。群馬県渋川市の公立高校をやっとの思いで卒業できた私は、3年のときの担任K先生に進路を明確にしないまま卒業しました。

頼りは、友人のお兄さんが浪人生活を断念してアパートを引き払うとのこと。その空いたアパートに継続扱いで済めるということ。家賃は、1万8千円で半畳の台所兼洗面所+4畳半一間押し入れ付きで風呂なしトイレ共同でした。そんな条件の住まいに1983年3月に友達のお兄さんの協力(車で荷物を運んでもらった)を得て引っ越しました。そして住む早々、職探しです。

ほんとうは、学校には進路を専門学校としたのですが、専門学校の学費を支払うことに躊躇(無駄になる)して、入学手続きの当日に自己判断で入学を辞めました。

その背景には、専門学校に通わなくてもバイトをしながらライブハウスに出演して知名度と経験を積み上げていく成り上がり方を目指す考えがありました。その頃、アパートの住む権利を譲ってくれた友人のお兄さんには、早稲田大学に通う都会的な友人の方がいました。結構インテリで独自性の強いアーティストタイプの人です。その人の同級生に渋川市出身のベーシスト反町哲之さんがいたことから、ライブハウスで鍛えながらプロを目指す方法を教えてもらいました。

1983年3月の引っ越し前から、私は東京の「渋谷屋根裏」、「四谷フォーバレイ」にて当時反町さんが在籍していたスキャナーというバンドのライブを見に行きました。渋谷の屋根裏でのスキャナーのライブの対バンがアイアンホースでした。アイアンホースには、ゴリゴリのベーシスト篠原仁さんがいました。私は、東京で熱く活動している彼らに憧れや尊敬の念を抱いていたのです。

そして、就職先を探すための活動も始めました。その頃は、「フロムエー」や「求人ジャーナル」などの求人情報誌を頼りに、アルバイトではなくフルタイムでライブ活動の支障にならない仕事を探しました。

そこで見つけたのが「株式会社ビーイング」の正社員募集です。

東京都港区六本木にある株式会社ビーイングは、芸能事務所として、当時は私が崇拝していたジャパメタバンドの王道LOUDNESSが所属していた事務所でした。そんな事務所に入社できるなんて夢のようだ。と思い、スーツを着て面接に向かったのです。その頃のビーイングは大きな事務所を構えている感じはありませんでした。名前は忘れましたが、専務だか常務だかのお偉いさんに面接をしていただき、その面接中に「バンドをやっている」「ラウドネスの大ファン」など、自分がバンドマンであることを売り込んでしまいました。その結果、面接官より「そんなにバンド活動がしたければこの仕事ではなく、ライブハウスに出る方が良いよ」と。不採用でした。そんな記憶が蘇った今日のひとときです。

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